The Village Voice

ザ・ビレッジ・ボイス(ニューヨークのエンターテイメント専門紙)

2004423

たそがれ清兵衛
マイケル・アトキンソン

おそらくは見過ごされ過小評価されるだろうが、山田洋次監督の「たそがれ清兵衛」は、大人の、新しい見方を取り入れた、バッド・ベティカー風サムライ時代劇である。このジャンルの伝統の砲列は、挑戦的な現実世界の攻撃を受けることになる。ここでは、19世紀の武士は藩の会計仕事に埋もれた将軍の小役人であり、家計に問題を抱えている。山田は、70代の多作な監督で、日本では27年、46作に及ぶ、現代劇コメディー「寅さん」シリーズで最もよく知られている。彼は「現実的な」時代劇を作ろうと試み、そのため物語は藩政治のばかげた不公正を土台として、食うか食われるかの職務、管理職による屈辱的な扱い、命令による切腹なども加味している。現代社会のサラリーマン達も容易に同感できるだろう。

題名にもなっている主人公、井口(「リング」主演のベテラン真田広之)は、しいたげられた無名の男で、低い身分、最近の妻の死、その原因となった結核のために背負い込んだ膨大な借金に脅かされている。井口(心ない同僚からは「たそがれ」とあだ名されている)のわずかな給料は差し押さえられ、年老いた母はすっかりおいぼれている。彼は幼い娘達にわずかな慰めを見いだし、この男らしい闘争心を規範とする文化の中で、その状況を改善しようという欲求を全くいだいていないように見える。おそらくは江戸時代におけるリストラの対象者リストに載った、この消えてしまいそうな武士の前に、運命の気まぐれな指が、幼い頃のあこがれ、朋江(宮沢りえ)の姿で現れる。彼女は、悪名高い武芸者である夫の虐待から逃れてきたところだった。この酔った無骨者から彼女を護るため(彼女と結婚するには貧しすぎるとわかっていながら)、謙遜な井口は、誰も想像していなかったほどの正義の戦いの腕を披露した。しかし、彼のわずかに明るく見えてきた未来は、藩が内部抗争に突入して、腕のいい暗殺者が必要となったことで、突然まな板の上に載せられてしまう。

藤沢周平の小説をもとにしたこの「たそがれ清兵衛」は、サムライ劇の定番手法を大幅に覆すというよりは、その優先順位を賢く現実に合わせたというべきものである。武士神話において問答無用の究極と見られている「名誉」は、実際のところ、貧困、子供に対する献身、ロマンチックな恋愛、家族に対する責任、あるいは思い上がった満足などにより、踏みつけられている。山田はこの映画を撮影するにあたり、年期のはいった手腕を用いており、ドラマを盛り上げるために必要以上にあおり立てたり、見ている者をキャラクターから遠く離れたところに追いやったり、ということをしていない。このように、話の筋においても表現の仕方においても、すべての場面が重要な意味を持つ映画を見られるのは嬉しいことである。(淡々とした作業の描写、たとえば井口が竹で虫かごを作る内職をしている場面や、果たし合いのために念入りに刀を研ぐ場面なども、この映画のリアリティへのコミットメントのあらわれである。)

それでも、これは決して見るのがつらいような映画ではない。山田の遠景の映像は、Sirkian(?意味不明)桃のように、熟して甘い。藤沢の物語は、簡潔で人間的な、幸福と社会の間の綱引きであり、巧妙に作り上げられている。しかし、「侍」が最も賛美しているものは、人間的なコミュニティの感覚であり、そこでは人間の関係は想像以上に深く、個人の不連続性は、その属する文化の非論理的な残酷性に由来する。クライマックスの場面において、本来なら死を恐れない対決となるはずのものは、疲労困憊した心を通わせた同情と嘆きの場となり、絶望した武士の一人がうわの空で火葬した遺骨をつまみ食いするという場面も登場する。ここでは、「たそがれ清兵衛」全体を貫くものと同様に、演技は心臓を掴むがごとくリアルであり、一般的な侍ジャンルのものよりも数段上の説得力がある。この山田の作品が今年オスカーにノミネートされたことで、この映画をばかにしてはいけない。アカデミーの外国語映画を評価する人々も、たまには自分たちのフェラーリのことを忘れ、繊細で大人で、滋養豊かな賢いものを選出することだってできるのだ。




The New York Times

ニューヨークタイムズ

2004423

映画評 「たそがれ清兵衛」(Twilight Samurai)

彼は柔和な会計係だが、怒らせてはいけない

エルビス・ミッチェル

山田洋次監督によるこの地味な主人公を扱ったドラマ、当初あまり注目されていなかった「Twilight Samurai(たそがれの侍)」は、その題名が、沈みゆく夕陽にシルエットがうきあがる、さすらいの侍二人の決闘、といったイメージを与えてしまう可能性がある。しかし、この題名は本当は、無口で献身的で、そして貧乏な江戸時代の男やもめ、井口清兵衛(真田広之)のことを指している。彼は、日暮れには急いで家に帰り、幼い娘達と年老いた母と時を過ごすのである。

それでも、題名に示唆されている武芸との関連は、徐々に実現してくる。不安と悲しみの色に染まった、息詰まる小規模な真剣勝負は、最後の場面を濃厚な男性的な味にしている。

みすぼらしいすり切れた着物を着た、もの静かで繊細な清兵衛は、もう何日も戦っているような臭いがする。彼が自分の身だしなみに頓着しなかったり、夜の生活に興味がなかったりすることに、会計係の同僚達は軽蔑と嘲笑を浴びせる。彼らは、家路を急ぐその同僚を「たそがれ清兵衛」と陰で呼んでばかにするのである。

山田監督はこれまで、大衆向け人情映画「寅さん」で知られている。永遠と思えるほどの長いシリーズもので、陽気な宿無し行商人を主人公にした、穏やかな日常劇である。彼は不幸せな家族の家―そしてその生活―にあがりこみ、手の届くはずのない女の子に恋をし、明るい太陽の光を残して去るが、彼自身の心はいつも傷ついてしまう。「侍」は、こんな古めかしいぬいぐるみの熊のような主人公の存在を除いた、「寅さん」映画であるともいえる。

山田監督の、淡々とした日常のディテールへのこだわりは、間違いなく多くの観客の忍耐力を試すことになる。彼は、「侍」を印象的な寒々とした冬の葬儀の場面から開始する。参列者が着ている喪服の白が、寒く薄暗い背景に融け込み、清兵衛の妻の遺骸が最後の安らぎの場へと運ばれていく。清兵衛の下の娘、井登(橋口恵莉奈)がナレーションを行い、彼女が5歳のときに母が死んだと語る。この荘厳なオープニングは、ストイックで装飾的な力を持ち、この2004年オスカー外国語映画賞ノミネーション作品全体を貫く基調となっている。

侍という題名の中の言葉は、観客の期待を裏切ると同時に、清兵衛の平凡な生き方とも対照的である。彼の仕事時間の大半は、食料の在庫管理に費やされ、殿様がやってきたときにはその悪臭を指摘されてしまう。彼の孤高の上品さは、萱乃(伊藤未希)と井登の待つ家に戻ると氷解する。井登はこの映画の良心であり、父をとても愛している。(カメラが井登の寝ているところをとらえる時、彼女は片方の目は寝ていても、もう一方の目は少し開けて、懸命に働く父親を見守っているように見える。)

そして、清兵衛の高齢の母親(草村礼子)が、どこの家中の者か、と繰り返し彼に尋ねると、彼の顔は思いやりある、しかしやや困った表情となる。真田氏は、清兵衛の周囲に対する鋭い認識と、穏和な用心深さとの切り替えを巧みに演じている。映画自体も、あちこちでこうしたスタンスをとっている。美しく、よく考えられた照明効果を使った長沼六男氏の撮影技術にもかかわらず、清兵衛の堅い慎重さは、監督がこの映画を扱う方針を反映しており、清兵衛の娘達への愛情だけが、わずかに暖かみを添えているだけである。

清兵衛は、容赦ない伯父(丹波哲郎)にしかりつけられ、なぜ誰か−誰でもよい−と再婚して、井口家に秩序を取り戻そうとしないのか、と問いつめられる。このけんか腰の怒り狂った老人は、自分の妹―清兵衛の母―を柱に縛り付けろとまで言う。清兵衛は、家族になんとか平静を保たなければならず、娘達とわざとこの厳しい伯父を冗談のたねにする。

幼なじみの女友達、やさしく美しい朋江(繊細で正確な演技の宮沢りえ)が、彼女自身の複雑な家庭の事情を引きずって、清兵衛の生活に再び登場する。この映画における彼女の存在を使って、山田監督は、内面と外面の圧力により彩られた、精緻な絵画を作り上げるのである。

この頃清兵衛は、驚くべき運動能力と武芸の腕を披露するが、これはうまくできた面白い場面である。清兵衛の同僚達は、このあと清兵衛をたそがれと呼ぶ言葉を飲み込むことになる。(真田氏の軽やかな身のこなしは、「ラストサムライ」を含むたくさんの映画の主要な柱となっている。)

山田監督は、時間をかけて、この70代の監督が持っていて当然の、堅い革のような尊大さを味わってもらうことで、観客が彼の移り気につきあってくれると自信を持っている。清兵衛と朋江の間の、愛情にあふれた、ぎこちないつきあいの仕方に、山田監督は他の要素と同じだけの労力を注いでいる。彼は、筋書きの中で時を刻むすべての刻音に、できる限りの時間を与えようとしている。このため、ある意味では「侍」(今日マンハッタンで開始)は、よくオスカー外国語賞にノミネートされる、芸術的だが退屈な映画の一種と見られかねない。しかし、山田監督は、観客を最後のアクション場面まで引っ張っていく自分の手腕を信じている。

この映画には、悲しみの音も流れている。戦いがついにやってきたとき、二人は運命と悲嘆という大人の感覚を思い知らされる。山田監督が、清兵衛を肉体的な挑戦に追い込まれるまで引き延ばしてやろうとしたのは、シナリオに悲劇的な面を盛り込もうとしたことである。この主人公にとって、自分自身を守るというだけでは不十分であり、彼はすべての結果を受け止めて生きていかなければならないのである。

(以下、スタッフとキャストのリストなので省略)



ComingSoon!

カミング・スーン!映画評

「たそがれ清兵衛」

エドワード・ダグラス

点数:10点中10

(キャスト・あらすじなどは省略)

分析:

日本の封建時代は、長いこと刺激的な映画づくりの豊かな土壌となってきた。そこでは、侍のライフスタイルは、血なまぐさい戦いと壮大な戦闘場面に代表されてきた。多くの映画ファンにとってこのジャンルの歴史は、黒澤明と、彼の多くの映画に主演した三船俊郎に始まって終わる。しかし、インディペンデント・フィルム・チャンネル<訳者注:ケーブルテレビのチャンネルの一つ、独立系映画ばかりやっている>の「侍の土曜日」シリーズのおかげで、盲目の剣豪、座頭市などの大衆的なヒーローにも注目が集まるようになってきた。このジャンルは、昨年はクエンティン・タランティーノの「キル・ビル」や、トム・クルーズの「ラストサムライ」などの映画でさらに勢いを増しており、多くの日本の監督は彼らの映画のルーツであるこの分野に戻ってきている。(日本も、6月はじめに米国でも公開される「座頭市」の新バージョンのような、恐怖のリメークと無縁ではない。)

過去30年間、山田洋次監督は、不運なキャラクター、寅さんを主人公にした48本の映画を作り続けてきた。このため、彼の日本の封建時代への最初の挑戦も、闘争や戦争でなく、生活の人間的な面にフォーカスを置いている。このユニークな見方のため、山田は政治・恋・階級意識などを混ぜ合わせた、日本の生活についての豊かな物語を作り上げた。この映画は、セットとロケを使って、黒澤の最高の作品に負けない美しい映像となっているが、山田は登場人物たちをリアルに描き出し、その間に強い関係を作り出すことがいかに大切であるかも、よく理解している。

井口清兵衛は、多くの黒澤の欠点だらけの主人公のように、この時代を描き出す共鳴板として最適である。名誉と誇りという侍の信条は、清兵衛の存在に重大な影響を持つ。家族や家事と、事務の仕事を両立させながら、自分の身の回りをきちんと保つことは大変なことだからである。このことは、えらい殿様が彼の乱れた身なりや不潔さを叱るときに、明らかになるのである。

もし三船が今日生きていたら、彼なりの清兵衛を作り上げたであろうが、真田広之(日本版のヒット作「リング」シリーズに出演)は、三船と同等であることを証明し、清兵衛に悲しみとペーソスをもたらし、そのため観客はすぐに彼と同感するのである。これはアメリカの俳優でもできる人がほとんどいないほどの難しい役であるが、真田はこの悲劇的なキャラクターをこれほど面白いものにし、日本最高の役者の一人であることを証明した。

清兵衛の幼なじみ朋江(宮沢りえ)との関係は、彼の貧しくみじめな暮らしの中の唯一の救いである。彼女はあらゆる感情を表していて、スクリーン上で見るのが楽しく、真田と一緒のシーンは美しく感動的である。周囲のすすめにもかかわらず、清兵衛は朋江と結婚するに値しないと考えている。彼女は豊かな家の出身のため、彼の簡素な生活にはなじめないと思われるからである。この内的なジレンマは、感動的なO.ヘンリー的な色調をこの物語に与えている。そして、清兵衛はなんとかその低い地位から脱して、幾度も逃した機会をとらえ、朋江と結婚する勇気を見いだそうとする。

壁から壁まで走り回るアクションを期待する、侍ジャンルのファンはがっかりするだろうが、この押さえた調子の物語へのアプローチのおかげで、美しい殺陣と、優雅さと緊張にあふれた2回の重要な立ち回り場面が、この映画の最高の場面として浮かび上がる。真田と田中みん(敵役侍として鮮烈な映画デビュー)とのクライマックスでの会話は、「現代の黙示録」のマーロン・ブランドとマーティン・シーンの対決に匹敵する。これは、映画の最上の一時へとつながっていく。

ラストサムライとほぼ同時期に設定されており、古い封建時代から日本の新しい技術の時代への移り変わりもカバーされている。山田の地元日本の人としての見方は、その点に関してより信用できる。ここでは、ライフスタイルには闘争や戦争よりももっと多くのものがあると言っており、アメリカ人の感覚に合わせるつもりは最初からないからである。この映画はまた、女性の社会的地位にもふれており、伝統的な見方から抜け出そうとしているが、これは日本映画ではあまり見られないことでもあり、新鮮である。

清兵衛の娘は、ナレーションとして、父の物語を未来から語って、映画の視点となっている。この点が、それ以外では完璧な映画の唯一の欠点となっている。山田は、彼女の話を完結させようとして、不必要なエピローグをつけている。このため、映画が頂点で終わることができないが、これ以外の部分がたいへんよいため、なんとか許せる失点となっている。

結論:

日本映画の中でも過去に最も多くの記憶に残る場面を残してきたジャンルにおいて、山田洋次はユニークなアプローチで、名誉と誇りの雄大な物語を語っている。真田の美しく完璧な演技のおかげで、「たそがれ清兵衛」は最近の記憶の中でも最高の日本からの輸出品の一つとなっている。この映画が日本アカデミー賞を総なめにしたことは当然のことだが、アメリカのアカデミーでも外国語映画賞をとってしかるべきであった。この年の映画を見た中で、とにかく最高の経験であったからである。

(あとはスケジュールなどのため、省略)

たそがれ清兵衛
The Twilight Samurai
山田監督が「徹子の部屋」で言及された「ビレッジ・ボイス」はこちら!
そのほか、代表的な映画評を和訳しました。

なお、このサイトの「たそがれ清兵衛」スチル写真は、米国配給会社エンパイア・ピクチャーズの許可を得て掲載しています。
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